日本でアマチュア無線はどのように発祥したか

「日本無線史 第六巻」(昭和26年2月25日電波監理委員会発行)のp215-222「第十三節 日本アマチュア無線聯盟」に、黎明期のアマチュアの奔放な様子の一端が記載されています。まだ「アマチュア無線」という用語自体が存在しない頃のアマチュアたちの、無線への興味・探求心には壮絶な熱量を感じ、驚きと尊敬を禁じ得ません。ちなみに、筆者はアマチュア無線の運用経験はなく、当然、免許も保有していません。しかしこの記録を読み、強い興味を持ちました。
原書が発行された昭和26年時点の記述であるため、現代にはそぐわない記述もありますが、ご了承ください。寛容な気持ちで読んでいただけるとありがたいと思います。

アマチュア無線の発祥

アメリカで放送無線電話が開始されて間もなく短波がアメリカのアマチュアによって、実験的に使用され始めました。日本では大正14年ごろ、放送を聞くだけでは飽き足らない人が中波(波長200mくらいと考えられる)で無線電話の実験・研究を始めました。浜地常康氏、安藤博氏らによるものです。大部分は、5W(ワット)程度の全電池式の送話装置と受信機(再生検波は最初用いられなかった)とで、「鬼ヶ島」「赤大根」といった怪しげなコールサインを用いて、1~2㎞の距離で通信を行っていました。その後、中波で通信する人たちとは別に、短波(波長32~42m)を使ってアマチュア同士がひそかに電信で交信し、外国のアマチュアと交信する人たちが出てきました。これは大きくは東京群と大阪群の二つに分かれたようです。アマチュア同士が空中で連絡を取り、急速に広がっていきました。

東京では仙波猛氏、磯栄治氏たちが42~45mの波長で実験をしていたのに対し、関西では草間貫吉氏、梶井謙一氏、笠原功一氏らが32~37mの波長帯を用いて送信していました。当初は関東と関西は全くコンタクトしないで個々の研究を行っていましたが、アメリカの国際アマチュア無線連合によって国際波長割り当てが米紙QST等で提案されたため、東京群の人たちは大阪群が使っていた波長帯に引っ越してきたことにより、相互のコミュニケーションが行われるようになりました。当時のアマチュアは自分たちが行っている通信が違法であるとは思ってもいなかったようですし、一方で法の取り締まりを行っている「逓信」当局もアマチュアが東京大阪間で通信をしていることを知らないという状況でした。

そのような中、大正15年(1926年)に我が国のアマチュア無線にとって画期的なことが起きます。前年の暮れに神戸の笠原氏は、上海在港中の米陸軍輸送船エドソル号と交信したり、北海道落石局(同局有志の実験セットが非公式に用いられていた)と交信したりで、小電力小空中線(送信管201A1個8m傾斜単線空中線フォード火花コイルによる陽極電源)による遠距離交信に手ごたえを感じ、大正15年1月18日マニラのアマチュア局IAUと最初のアマチュア国際交信に成功しました。そしてこの年、32~42mのアマチュア国際通信は飛躍的に伸び、この年の夏までに北米、オーストラリア、ニュージーランド、南米、南アジア、インド島、ほぼヨーロッパを除く全地域との完全な交信が記録されます。そして、大正15年6月に全国約30名のアマチュアによって「日本アマチュア無線連盟」が結成されるのです。6月12日の夜、全会員は次の連盟成立宣言文を電信で発信しました。

We have the honour of informing you that we amateur in Japan have organized to-day the Japanese Amateur Radio League. Please QST to all stations.
訳:本日、我々日本のアマチュアによる、日本アマチュア無線連盟が発足したことをお知らせできることは光栄の至りです。なにとぞ、各局すべてにこのメッセージの再送をお願いいたします。

これを聞いた諸外国のアマチュアはみな、このメッセージを再発進したため、一時は受信機のダイアルをどこへ回してもこの文章を送っている全世界の信号であふれました。これにより、アメリカQST誌はじめ、諸外国のラジオ雑誌のほとんどは同年8月号に日本アマチュア無線連盟「JARL」発足を報じました。ただし、日本のラジオ雑誌だけを除いて…。

そのころになってようやく、逓信省も日本にアマチュア無線局が無数にあることを知るようになります。たまたま米紙QSTに神戸の谷川譲氏その他の日本人の名前が出てくるに及んで、当局による「取り調べ」が開始されるに至りました。とはいっても、当時地方逓信局には短波監督受信機はなく、また短波受信機を有する局所(ほとんど実験用のもので非公式のものが多く、落石、岩槻、東京芝の官棟等にあるのみ)では特にアマチュア無線を摘発するようなことをしなかったので、逓信局で取り調べられて帰宅するとすぐ、外国と交信して何の不安も感じることがなかったという、ちょっと笑える状況でした。

日本アマチュア無線連盟は当初、関東と関西の両支部に分かれていて、連盟の会長は草間貫吉氏でした。連盟の運営は極めて民主的だったようです。連盟が発行した会誌「無線の研究」は当時としては特異な存在でした。大正15年4,5月号以後のこの雑誌にはアマチュア・ラジオに関係した記事や報告が多く掲載され、中でも同年12月号の仙波猛の「アマチュア・レイヂオ」という記事は日本でアマチュア無線を正しくかつ系統的に解明した最初の記事でした。この記事の前に次のような日本アマチュア無線連盟の規則が載っていました。

第一条 名称、日本アマチュア無線連盟
   Japana Amatora Ligo J. A. R. L.(ママ)
第二条 目的、大日本帝国におけるアマチュア無線研究者を統一し国際的に之を代表し無線通信学の学術研究及び知識の交換を以て目的とす。
第三条 事業
 一、研究機関の設備及び其研究結果の発表をなす。
 二、外国アマチュア無線研究団体との連絡をはかり研究に関する文書の交換をなす。
 三、インターナショナル・アマチュア・レイヂオ・ユニオンの日本帝国支部を兼ぬ(以下略)

名称は当時エスペラントを採用したとのことでした。
「無線の研究」は大正15年1月号から表紙に「JARL機関紙」と表示し、さらに2月号からは、記事の文字を左から右に横書きで書く「左横組み」にしていて、当時としては先端的な新しいセンスを持つ集団の機関誌として認知されていたようです。
しかし当時のアマチュア無線は逓信省の許可を得た人が少なかったため、機関誌を発行し続けることには無理があり、翌昭和2年(1927年)9月、この機関誌は廃刊となりました。その時の巻頭言は、「アマチュア・レーイヂオが今一段の進歩発展をするまでしばらく待ちましょう」でした。

実験無線公認時代へ

「無線の研究」誌の廃刊までが、アマチュア無線の「もぐり時代」(非公認で影のように暗躍していた時代)で、アマチュア無線をどのように扱うべきかを取り締まり当局が研究していた時代でもありました。とはいっても、この時期であっても、特例として実験施設を2,3許可しています。例えば、昭和2年4月5日付で波長80m20W 楠本哲秀、同26日付38m3W 有坂磐雄などです。しかしいわゆるアマチュア無線として、ややはっきりした考え方をもっての許可は、前述「無線の研究」の廃刊とほぼ時を同じくして、いずれも38m(5W前後)で草間貫吉(JXAX)仙波猛(JXBX)等を筆頭に秋までに約10局が許可されたのが始まりといえました。このように、日本のアマチュア無線は公認されましたが、実質的には依然として「もぐり時代」は続いたのです。というのも、アマチュア無線は、許可された範囲にとどまらず、新奇を追い求めるというのが、いわば通常モードだったからです。当時のアマチュアはいつも許可の範囲外のことに夢中になり、義務である報告書作成にかかわる作業以外は、許可の枠内にとどまらず様々な実験を行っていたのが実情でした。

昭和3年ごろから14MHz(原書の単位は「c(サイクル)」だが本稿では「Hz(ヘルツ)」とする)の実験が秘かに行われ、翌年大阪の笠原氏は14MHzでフランスとの交信に成功。日本最初の6大陸交信者として米ARRLから「WAC証」を受けます。当時許可されていた38mでは、ヨーロッパとはどうしても電力不足で交信が困難な状況でした。なお、WACはのちにIARUに移管されます。

昭和4年4月、日本ラヂオ協会会誌「ラヂオの日本」にJARLの欄が設けられましたが、アマチュアによって行われている実験の実態がほとんど法規の許可範囲外だったため、それをあからさまに書いて記事にはできませんでした。一方で、地方のアマチュアの要望もあって同年6月連盟では大阪で「JARLニュース」というタイトルの機関誌を発行しました。この機関誌は通称「ガリ版」と呼ばれる謄写版(とうしゃばん)という印刷手法で作成されました。「鉄筆」というものを使って手書き文字で製版するときのガリガリという音から、ガリ版と名付けられたようです。「JARLニュース」はその後、幾多の変遷を経て昭和16年12月第96号まで発行され、第二次世界大戦終戦後は「CQ」誌上に継承されました(昭和26年当時)。

昭和4年3月にスイス ジュネーヴの国際連盟本部により日本向けの日本語による放送試験が、オランダの有名な短波局PCLLを用いて、電力32KW、波長18.4mで、3回行われました。これはその前年9月にも2,3他区向けに実験が行われた時に日本からの受信報告があり、日本にも無線受信者がいることを知った連盟が日本語の放送を行ったという経緯からでした。この放送は海外から日本向けに日本語で放送された最初の事例と考えられます。当時の受信報告は無線連盟で取りまとめて国際連盟に報告されたのでした。

昭和5年には28MHz(10m帯)のアマチュア無線用として逓信当局の許可は未だなかったにもかかわらず、この短波を用いて、大阪のアマチュア竹島早苗氏等が中心となってオーストラリアおよびインドとの交信に成功します。このため、28MHzは日本のアマチュア間に急速に広まっていったのでした。使用機器はいずれも入力30W程度の自励発信機と再生一段増幅程度の受信機でした。

昭和6年には日本アマチュア無線連盟は初めて名古屋に全国大会を開き、その後毎年4月(昭和7年を除く)東京、大阪、名古屋3場所持ち回りで全国大会を開きました。多いときは60名近くのラジオ・アマチュアが集まって研究発表等を行いました。

昭和7年3月に「アマチュア無線と国防」という問題が取り上げられ、昭和8年には愛国無線通信隊が結成され、活動的な多くの現役アマチュアが参加しました。このため、アマチュア無線や無線連盟の将来・在り方について当時の連盟幹部はかなり悩んだようですが、いわゆる発展的解消などということにはならずに、連盟は独自の存続を続けました。当時アマチュア無線は諸外国の発展につれて日本でも大幅な進化をしていましたが、通信当局の取り締まりも次第に厳格になりました。厳格化した原因は思想関係にあるという人や軍関係にあるという人など様々だったようです。しかしながら、進歩的なアマチュアには、逆に軍を利用して逓信当局の取り締まりを潜り抜けようとする者がおり、そのような試みが再三あって成功した人もいたようです。

昭和8年から9年頃までは、当局による交信時刻の制限というものがあり、波長が短くなるとともに、不便さを痛切に感じる人たちが増えていきました。当時の許可された波長は昭和の初め38mの1波長のみでしたが、昭和4年7100KHzおよびその整数倍が許可され、そのあと3550kHzが追加され、全アマチュア局がそれらの波長が割り当てられました。一方、通信時間については1日9時間から11時間と決められ、1時間から2時間に区切って許可され、電力は10W以下とされていました。そのような状況だったので、施設許可はほとんど名目のみで、幾多の違法な実験が行われましたが、どの実験も違法だったため公表されずに終わっています。(筆者注:このあたりの原著の記述が分かりにくいのですが、おそらく、短波における使用できる周波数が増えているのに、左記の出力や通信時間では技術的に有効な実験が困難だったため、違法な実験とならざるを得なかった、ということではないかと思います。)

昭和9年末、日本アマチュア無線連盟は正式に万国アマチュア無線連合(IARU)の日本代表部となりました。それまでの手続きは様々な困難があったようで、歴代の幹部が苦労を重ねた結果、この年に加盟24か国アマチュア団体の賛成を得て正式参加が認められました。その時の担当本部幹事は島茂雄氏で、日本アマチュア無線史のエポックメイキングといえます。日本アマチュア無線連盟が設立当初からその会則に謳っていたIARU加入は10年目にしてようやく実現しました。

昭和10年は28MHz(10m)電話交信による輝かしい業績が東京の斯波邦夫氏や三田義治氏によって達成されました。前述のように昭和5年日本のアマチュアは28MHzからスタートしましたが、海外での技術的発展が遅々としている中、5極送信管の入手が容易になったこともあり、自動発振式送信機は水晶制御式となり、再生検波受信機は水晶濾波器(ろはき=フィルタ)付きのスーパーヘテロダインになり、この年には6大陸更新という世界的な成果をあげて日本アマチュア無線の水準を世界的なものにしました。

なお波長にはかかわらず、6大陸と交信してその確証をWACクラブ本部に送ってWACメンバーになった人たちの数は、前述の昭和5年(実際の交信は昭和3年末に行われ昭和5年1月4日付)の笠原以降毎年増加し、太平洋戦争前には50名を突破しました。これはアマチュアの全人口が250名に達していなかった当時としては非常に高率で、世界でも1,2を争うものでした。

国防通信との協力

ここでアマチュア無線の一つの側面であった国防通信との協力について述べます。

昭和7年3月2日、第4師団の小沢匡四郎大尉の発意に基づいて近畿中国の局を中心に一部東北、北海道までの実験局が通信連絡網を形成して通信文の継送を行いました。当時逓信者の法規上では違法ですし、またアマチュア局は当時電報送受については何の心得もありませんでした。この結果非常時通信網という考えがアマチュア間に芽生えましたが、さらに軽視できない傾向として、この種非常時通信として軍部の息のかかった場合には時間外に公然と実験ができるということが強く純真なアマチュアの心を惹きつけました。その後、各地で行われた防空演習に愛国無線通信隊、特設無線電信隊、防空特殊無線隊、国防無線隊等各種の名称でアマチュア有志が参加し、相当の成果を上げました。ただ日本アマチュア無線連盟はこの間これらの諸団体とは全く関係を持たず、全国的アマチュア団体として存在し、一時は国防無線隊として全国的に解消改組を「その筋」から勧められましたが、「国防無線隊とは表裏一体なり」と称してついに解散することもなく、アマチュアのために、アマチュアによって運営されるアマチュアのみの団体として存在を続けて今日(昭和26年)に及んでいます。

一方、逓信省電務局では昭和3年ごろから非常災害時に全国に散在するアマチュア無線を利用することについて研究され、アマチュアの通信技量、交信周波数、交信時間等を実験報告等により調査するなど短波利用初期時代にかなり検討されていましたが、種々の事情からアマチュア助成策は実現せず、アマチュアを制限するような体制で推移しました。しかし昭和14年施設無線電信無線電話規則を改正し、逓信大臣において指定する場合は実験無線局でもある種の通信(防空等)の交信を行うことを可能のすることとして、いつでも情勢に適応できるよう制度を整えるという面がありました。

昭和16年12月8日施設無線電信無線電話取り締まり非常措置として電波発射が禁止され、続いて13日には施設の使用停止すなわち、送信はもちろん受信も停止する命令が下されました。

「日本無線史 第六巻」(昭和26年2月25日電波監理委員会発行)のp215-222「第十三節 日本アマチュア無線聯盟」の記述はここで終わっています。

最後に

いかがでしたでしょうか?筆者は無線従事者の経験がありませんが、当時のアマチュアの旺盛なエネルギーが伝わってくると感じました。
アマチュア無線の人口はスマートフォンやインターネットの普及などにより、世界的に減少傾向にあるようですが、一方でドローンに使用される周波数帯と重なるため、脚光を浴びるようになっているようです。

ぜひ、多くの方が筆者同様、アマチュア無線に興味を持つきっかけになっていただければと願っています。