逆説の医学史
リュック・ペリノ 広野和美・金丸啓子 訳
エピソードが19あるうちのいくつかを紹介する。
「タンタン」しかしゃべれない男
脳の言語領域の特定に貢献した男タンタン。完全に言語能力を失っていて、何を聞かれても「タンタン」としか答えられないからタンタンと呼ばれた。タンタンは、壊疽の症状が現れ、なすすべもなく死んでしまう。病棟のポール・ブローカという高名な教授が死体を解剖したところ、左大脳半球の前頭葉に神経梅毒による損傷を見つけた。ブローカはこの損傷が言語障害に関係していると考えた。それが脳の言語中枢の発見につながった。1861年のことであった。ブローカ自身はこのような症状の患者について次のように説明している。「彼らが失ったものは言語能力ではない。言葉の記憶を失っているのでも、言葉や音を発することに関与する神経や筋肉の機能を失っているのでもない。失ったのは、自分の口から発せられた言葉に連動して体の動きを調整する能力だ」。タンタンの脳に損傷があった箇所は今では「ブローカ野」と呼ばれて広く知られている。裏にこうした脳に損傷を負い、言語が使えなくなった患者という犠牲があっての知見といえる。
前頭葉損傷により、人格が変容したフィネアス・ゲージ。
1848年9月13日、25歳のフィネアスは、長さは3フィート7インチの道具が彼の頭部を貫くという事故に遭う。道具は鉄の棒で、彼の顔の下横から入り、左目の後ろを通り抜け、頭頂から飛出した。左目が飛び出していた。
ところが驚いたことに、フィネアスは倒れず、何か喋っていたようだ。医師のところに到着した際も、立って「先生、よろしくお願いします。」と言う。フィネアスは立ち上がった際、嘔吐した。嘔吐しようと力んだため、ティーカップ半杯ほどの脳が押し出され、床にこぼれ落ちた(Wikipedia)。
フィネアスは身体不随になることもなく、左目は失ったものの、回復する。
しかし、世話好きで穏やかな性格だった彼は、攻撃的で下品な男に変わってしまった。
フィネアスの症状の研究をきっかけとして、今では前頭葉の障害によって起こりうる行動障害や前頭葉の機能がわかった。
脳のない男 はかり知れない脳の可塑性
左脚が脱力する症状で病院にきたサミュエルの脳を、CTとMRIで確認してみると、そこには脳がなかった。正確には脳が髄液で満たされており、頭蓋骨内の90%が液体で、サミュエルの脳はヒト以外の霊長類よりも小さかったという。それでも知能指数は75、言語知能指数は85もあり、結婚もして公務員として正常な生活を営んでいた。「サミュエルのCT画像には記憶と身体の協働運動に必要な脳の中枢構造が写っていないのに、当人には対応する傷害が何もないのだ!」。ただ一つ可能性のある説明は、あらゆる脳やと構造が機能を保ったまま徐々に再形成され、圧縮されていったというものだ。
その他のエピソード
ひとりの腕のいい料理人メアリーが務める先々で腸チフスの患者が出ることにより、無症状キャリアという患者がいることがわかった。新型コロナウィルスの感染者にも、無症状の人はいると考えられている。
なんと不老不死の細胞が見つかっている。細胞を永遠に培養され続けているヘンリエッタ・ラックスの細胞だ。ヒーラ細胞と呼ばれている。
さいごに
著者は、輝かしい医学史の裏側に埋もれた、患者たちの目線で記述することにより、犠牲と貢献にスポットを当てたたいと思ったと言う。医療従事者や製薬業界の商業主義への皮肉と、痛烈な批判がメッセージとして受け取れる。